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椿荘日記

椿荘日記

椿姫の間<マリ・デュプレシとは・・・>

マリの肖像


「マリ・デュプレシ(MARIE DUPULESSIS)の肖像」
(コメデイーフランセ-ズ所蔵)


<マリ・デユプレシ~椿姫のモデル>

ご存知の方もきっといるかと思いますが、マリ・デュプレシはアレクサンドル・デュマ・フィスの小説「椿姫」(原題LA DAME AUX CAMELIAS)のタイトルロール、マルグリット・ゴーテイエのモデルとなった実在の人物(本名ローズ・アルフォンシーヌ・プレシ)です。
彼女は十九世紀フランスのルイ・フィリップ治世下の多くの貴族、ブルジョワのダンデイ達の憧れの的、いわゆる高級娼婦(高等内侍)、クルテイザンヌでした。
娼婦というと、どうしても、身を売る卑しいだけの女というイメージが先行しがちですが、この時代のクルテイザンヌ、特にマリは芸術的ともいえる卓抜なセンスと美意識の持ち主で、遠くは古代ギリシャのヘタイラ(この時代のギリシャの高等遊女、「連れ」と言う意味)にも匹敵する、教養溢れた、気品ある才媛だったそうです。
小説にもあるように実在の椿姫も、椿を始め様々な花を愛し、庶民の家族が一ヶ月暮せる程の金額をその花束一つに費やしたそうです。ただ、胸を病んでいる彼女は匂いのある花は駄目で、それゆえ椿を最も愛する椿姫という評判を得たのでしょう。

マリア・カラス

「『椿姫』」に扮するマリア・カラス(ロイヤル・オペラでの公演時の写真と思わ
れる)」
     

<マリ・デュプレシとの出会い>
私が「椿姫」~マリ・デュプレシ~を知ったのは、やはりヴェルデイのオペラ「ラ・トラヴィアータ(邦題・椿姫)」が最初でした。今から十年以上前、ヴィスコンテイの演出の薫陶を受けたマリア・カラス(私のデイーバ!)が、その後、最高の「椿姫」のプリマドンナとして、各都市有数のオペラハウスで素晴らしい公演のライブ録音(残念ながら、彼女の「椿姫」の美しい舞台姿は僅か数カットしか残っていないそうです)を残しており、その内のロイヤルオペラハウス版を聞きました。
そして以前から知っていたはずのこのオペラが、私にとって特別なものになったのです。それから椿姫に関する文献を読み進むうちに、ヴィオレッタ(マルグリット)の実際のモデル、マリに出会ったのでした。
彼女の肖像画が数枚残されており、その美しく気品ある容姿を今も見ることが出来ます。

<マリ・デュプレシの生涯>

~泥濘の花~

マリ〈本名アルフォンシーヌ)は1824年、ノルマンデイー、ノナンの貧しい家に、貴族の血を引く母と、聖職者の私生児という父を両親に持ち生まれました。
いわば高貴の血と淫奔の血を両方持って此の世に誕生したのです。
家業は小間物屋で、父親はあまり働かず、毎日酒を呷っては妻や二人の娘達に暴力を振るっていたそうです。ついに耐えきれなくなったアルフォンシーヌの母は家を出奔、姉と妹(アルフォンシーヌ)は殆ど放置されるか、父親に小突き回されるようにして育ちました。
そして、自らでは選択出来ず、拒むことの出来なかった汚辱と悲惨の少女時代(彼女は13歳で、父親に意に添わない老人相手の妾奉公まで強いられていたそうです)を経て、パリに半ば売られるかのようにやって来ます。
八百屋の売り子、洗濯女、帽子屋の見習いと、まさしくオペラ「ラ・ボエーム」のグリゼット(貧しい女工)そのものの暮しをパリで続けるうちに、ノレという中年の小さいレストランの持ち主に見初められ、その男の囲い者になりました。
その後、彼女を女ダンデイとして引き上げてくれる、アルマン・デュバルのモデルの一人、若き、名門グラモン家の子息、ド・ギッシュに出会い、徹底的に貴婦人としての教育を授けられます。彼はアルフォンシーヌの中に埋もれていた、知性と独立心に気が付き、自分の「連れ」として相応しい女性に仕立て上げようとしたのです。彼女はギッシュを心から愛したのですが、いくら、彼女が貴婦人に変身し、それがどんなに見事で素晴らしくても、所詮は貴族と下層階級の娘で、結婚という社会的に認められた関係には至りませんでした。
ギッシュもアルフォンシーヌをとても愛したということで、おそらく子供まで受けたといわれますが、結局、彼女は子供(*筆者注)を手放し、ギッシュとも別れて(金銭的な背景もありました)クルテイザンヌとして生きることを、この時決心したと思われます。この時アルフォンシーヌ17歳、そして自ら選んだ名前が<マリ・デュプレシ>~DUは貴族の名前につく~だったのです。
如何に教養を積み、洗練された物腰や気品ある態度、美しい着こなしを得ても、自分より数段劣ると思しき女性が、貴族という称号を持っているだけで敬われ、認められる社会で、賢い彼女はどれほど打ちのめされたことか思います。
その後の奔放で贅沢に満ちた、一種自暴自棄とも見える生き方は、この時代の社会通念に対する彼女なりの抵抗とも言えるのではないでしょうか。
  *(一説には父親は内務省に勤める若子爵ともあり。)

マリ(イリュストシオン)

「マリと青年貴族」エッチングに手彩色(個人蔵)
当時の雑誌『イリュストシオン』に掲載されたマリの姿(青年貴族はギッシュか?)

~花の生活(伯爵夫人になるまで)~

マリはギッシュと別れた後、何人かの青年貴族達(彼女は老人の囲い者だった辛い体験のせいか、若い男性だけ「恋人」としていました)と束の間の「恋」を繰り返した後、アルマンの二人目のモデル、フランス有数の銀行家の相続人、ペレゴー伯爵と出会い、互いに激しい恋に落ちました。このペレゴーこそが最後に彼女に伯爵夫人のタイトルを与え、マリを、おそらく最も愛した男性だったのです。モンマルトルに今も残るマリの美しい大理石の墓は、彼が建てたものです。
ペレゴーは性格的にもかなり弱い人間だったのか、散々気紛れなマリに振り回され、言いなりになって金銭的に追い込まれ、何度も裏切られながらも、彼女のたっての願いを受け入れて、この時代ではあり得ない程非常識な結婚を、最後にロンドンで行います。この時彼は財産の殆どを失うまでになっていました。

さて、奔放な生活のせいか、もともと余り丈夫ではないマリは胸の病をすでに発しており、何度目かの療養先であるバ二エールで、老スタッケルベルク伯に出会います。スタッケルベルクは巨万の富を保有する元ロシア大使で、彼女に自分の亡くなった娘に似ていると告げ、クルテイザンヌの生活を改めてくれるなら、暮しの保証はすると申し出ました。こうしてマリの「保護者」となった彼は、その後、最初の申し出と違う関係をマリに求めるようになるのですが、ペレゴーを始め何人かの恋人達との不安定な関係の中で疲弊していたマリにとって、逃れる術は無かったと思われます。手元不如意になり掛けていたペレゴーから、生活の基盤をスタッケルベルクに移しつつあったマリが、その時遇ったのがアレクサンドル・デュマだったのです。

~「LA DAME AUX CAMELIAS(椿を持つ貴婦人)」~

小説「椿姫(椿を持つ貴婦人)」の作者、アレクサンドル・デュマはマリと本格的な関係を結ぶ一年前に彼女をちらりと見かけ、思いを募らせていたらしく、その周辺の事情は小説に詳しく語られています。そう、彼こそが三人目のアルマン・デュバル、主人公の性格のコアとなる人物でした。デュマによると、戯曲「椿姫」の一幕目(田舎の別荘暮らし以前)までは「真実」の物語で、それ以降は「彼女なら耐えられる(もしくは)そうさせてみたかった」完全な「創作」だそうですが、確かに恋する青年の感受性と各描写はりアルで説得力があります。彼らは十一ヶ月に渡って親密な関係を続けますが、小説にもあるようにマリが「金銭上の恋」に時間を割いている間、デュマは気も狂わんばかりの嫉妬に苛まれていました。そして終には耐えきれず、その後女優サラ・ベルナールに贈られた有名な別れの手紙をマリに送り、傷心を慰めるため父親である大デュマと世界各地の見聞旅行に、逃れるように発っていきました。
スタッケルベルクとの贅沢な、しかし空虚な生活を埋めるべく、彼女も期待し、おそらく愛したであろうデュマとの別れを、マリがどう受け止めたのか、彼女の当時の気持ちを知る由もありませんが、今も残る、次第に訪ねて来るのも間遠になっていくデュマに当てた手紙が、彼女の性格と心情を表しているのではないでしょうか(以下にマリの手紙と、デュマの別れの手紙を引用)。

 「親愛なアデット(デュマのマリによる愛称~筆者注)

 どうしているのか知らせてくださらないのはなぜ?率直なお手紙を
 くださらないのはなぜなの。私のことを友だちだと思っていただき
 たいわ。ですから、お便りをくださいね。やさしくあなたにキッス
 します。あなたのお気持ちのままに、愛人として、またはお友達と
 して。どちらの場合でも、いつもあなたに忠実な、
                             マリーより 」 

 「親愛なマリー

  ぼくは、君を思いのままにするほど金持ちではない
  し、君の思いのままになるほど貧乏ではない。だからお互いに忘れる
  ことにしよう。君は、君にとって何物でもない男の名を忘れ、ぼくは、
  もう不可能になった幸福を忘れるのだ。どんなにぼくが悲しい気持ち
  でいるかを、どんなにぼくが君を愛しているかをよく知っている君に
  告げる必要はあるまい。
  さようなら。君の広い心はこの手紙の意味を十分理解してくれるだろ
  うし、君のすぐれた知性はきっとぼくを赦してくれる。
  数々の思い出をこめて。

  八月三十日 真夜中
                            A.D」

                                       

                              
           
      (ミシュリーヌ・ブーデ著、中山真彦訳「よみがえる椿姫 」より)


~花の命を賭して(マリとリスト)~

デュマと別れれたマリが、残りの数年の内、その命を燃焼させた恋の相手が、リストであったと言う説があります。リストの愛人だったマリ・ダグー夫人に当てた手紙にマリとの関係が覗われるものがあり、それに加えて当時のジャーナリスト、ジュール・ジャナンの記述(1850年版「椿姫」の序文としてジャナンが著した)
にその出会いの詳細が残されています。奔放な生活が祟り、慨でに病状の進んでいたマリは、アンビギュ座で出会った時代の寵児にしてピアノの帝王と呼ばれたリストと心を通わせます。何人もの男性との恋に倦んだマリは、当代随一と呼ばれた演奏家であり大芸術家のリストに「あなたなしでは生きていけない」と、演奏旅行に伴ってくれるよう懇願しました。リストも才気煥発で気立てのよいマリを「その類の女性とは思えない」と愛し、一身に同行を乞うマリに対して共にイスタンブールに行くことを約束しました。身元の定かでない女性を伴って向かえる土地は他にはなかったのです。
しかし、旅立ったリストからはその後の便りはありませんでした。


マリの墓

「ペール・ラシェ-ズ墓地にあるマリの墓」
今も訪れる人の絶えないこの墓の、同敷地内にデュマも眠っている。


~散りゆく花(マリの死)~

デュマともリストとも別れ、心身ともに絶望の底に瀕したマリは、謎とも言われるペレゴーとの結婚に踏み切ります。
一説には、リストを一身に思うマリが彼が待つ希望の土地に向かう為、伯爵夫人のタイトルを無謀な方法で得たとありますが、身分が低い為、これまで散々悲しい思いを余儀なくされたマリの最終結論だったのではないでしょうか。出自が定かでなくとも取り合えず金銭面では困らない、しかし身分、つまり社会的な存在として否定されている彼女が最後に求めて止まなかったのは社会的存在として認められた自己(貴族)ではなかったかと思われます。
いずれにせよ、その後のマリは結婚時のトラブルでペレゴーとも疎遠になり、スタッケルベルグとの関係も、「出資者」である彼を何度も欺いたせいなのかすっかり途絶え、病状と共にすっかり勢いをなくして、1847年の冬、後に2月革命を控える動乱の兆しの強いパリで、23歳のうら若い身で結核の為亡くなりました。2月3日の夜明けを待つ午前3時のことでした。
葬儀に参列したのは、死の直前に和解したペレゴーと、忠義の小間使いクロチルドなどごく数人で、スタッケルベルグの姿はあったともなかったとも言われます。
デュマはその訃報をアフリカから帰国し数日たったマルセイユで聞き、やっと立ち会えた彼女の持ち物の競売の場で、あれほど愛した彼女の生涯の小説化を思い立ったのでした。マリを引き上げたギッシュと、伯爵夫人の称号をあたえたペレゴーと、マリの更正の夢を賭け、嫉妬に苦しみながらも懸命に愛した自分を統合した、アルマン・デュバルを主人公にした物語がここに誕生したのです。

<マリ・デュプレシの真実>

永竹由幸氏はその著作「椿姫とは誰か」の中で「そんな生い立ち(~泥濘の花~の章、参照)から本当の愛を知る女が出来てくるということは奇跡」と述べています。私もその考えに賛同し、次のことを付け加えたいと思います。それは彼女が芸術というものを知り、理解する「芸術家」であったということです。芸術家とは端に美術、音楽、文学等のカテゴリーに従事する存在を指すものではなく、良きものを選び取る力、環境、状況に影響されず正しくものを見抜く目を持つ者、ということです。対象の中から真実を見出す力が彼女に生まれ付き備わっていたからこそ、素晴らしい男性達、多くの貴族、知識人、文筆家のデュマ、演奏家にして作曲家のリストに心から愛され、マリも心から愛したのではないでしょうか。
マリが唯、派手に身を飾り、客としての男達に身を任せるだけの女だったら、果たして、彼らがあそこまで引きつけられたとは思えません。
リストはマリの死後、マリ・ダグー夫人に宛てた手紙に
「あれは、近年私が体験した最後の、そして唯一の衝撃でした。矛盾した言い方ですが、この気持ちは説明の仕様がありません・・・」
と書き、彼女の死を心から悲しみました.
(リストはマリを忘れたわけではなかったのです)
マリが、その病床を訪れた女優ジュデイット・ヴェルナにある時こう語ったそうです。

「私がなぜ身を売ったかですって?」とマリーは大女優に向かっていった。「ぜいたくへの抑え難い欲求からです。誓って申しますが、私は見かけと違って欲張りでもなければ淫乱でもありません。ただ芸術の美を味わいたかったのです。優雅で洗練された人々に交わって暮したかったのです。だから私のお友達はいつも選び抜いた人ばかりです。」・・・(中略)

「私は恋をしました。心から愛しました。しかしまだ誰も私の愛に応えてくれません。自分の一生はこうなのかと思うととてもたまらない。それで私は絶望のあまり悪の中に身を捨てたのです。そしてこのまま死んでゆくのです」
                      (「よみがえる椿姫」より引用)

<マリとマリー>(MARIE ET MARIE)
  ~後書きに替えて~

マリの特異性はその人生に対する姿勢にあります。
同時代のクルテイザンヌ、バイエルン王にその玉座を失わしめたローラ・モンテス、
時代は下がり、ベルエポック期の、やはり一世を風靡し、同時代の人々の半ばスターであった、コレットの小説「シェリ」の女主人公のモデルにもなったリア-ヌ・ド・プージイ(彼女はマリと同様東欧の貴族ギガ大公と婚姻関係を結び、大公妃となりました)などの、旺盛で、女として、生物として、貪欲なまでに人生に対する嗜欲を剥き出しにして逞しく生きた女性たちとは違います。
上述の言葉から判るように、美しいものを愛し、心の満足を得る為に「パトロン」
達に「お利口」を約束することを余儀なくされたマリと、蓄財と虚栄心のゆえ、男達を裸にすることに何のためらいのない(エミール・ゾラ著「ナナ」のタイトルロール、オノレ・バルザック著「従姉妹ベット」のマルネフ夫人参照)女達との間には、雲泥の差があります。
「貴方にあげる愛は本当の愛なのよ。身も心も貴方のものになりたいわ」と告白するマリの心にあるものは、およそ高級娼婦では考えられないことなのです。

オペラ「椿姫(ラ・トラヴイアータ)」の作曲者であるヴェルデイは、歌手である内縁の妻、ストレッポーニと共に観た、デュマの戯曲「椿姫」に強く心を動かされ、オペラ化の意志を固めたと言われます。
しかし、当時の倫理観、社会通念においては、娼婦を舞台に上げることは考えられないことでした(デュマ自身も上演するにあたっては、様々な障害を乗り越えなければいけませんでした)。
紆余曲折の末、時代を十六世紀に移すことで、当局の許可を得ますが、その時代設定のぎこちなさか太りすぎのプリマの為(!?)か、初演(1853年)は失敗します。
しかし、驚くべき熱意と努力で、冗漫と言われたスコアも手直しし、素晴らしいプリマも得て、1年後(1854年)に、大成功を収めます(しかし時代設定が戻されるには二十世紀を待たなければいけませんでした)。

このヴェルデイの熱意は何処からきたものなのでしょう。
一説には、伴侶であるストレッポーニがヴェルデイと知り合う以前、同じ劇場の歌手との恋愛の末、私生児を産んだということから「トラヴィアータ(道を踏み外した女)」として彼女をヒロインに重ねたとありますが、その信憑性は兎も角として、彼が、その個人的悲劇とも言い得るデュマの小説(戯曲)を透かして、まさに主人公であるマリ・デュプレシの真実を見抜き、女神として作り変え、オペラの舞台に乗せたのではないのでしょうか。
人々が目を見張る美貌と才気と贅沢を欲しいままにしたはずのマリが、この世の最も美しいもの、人と人との愛という最大の宝物を得たという確信もなく亡くなった
とすれば、これほど悲しいことはないと思います。
自分の人生において自由と奔放とを誇った瞬間がもしあったとしても、人としての尊厳までは得られないということの辛さを、その短い人生のうちに早々に知ってしまったマリの、淋しい微笑みが見えるような気がします。

               ~FIN~

*筆者注;
文中の人名として、マリ(筆者文)とマリー(引用文)の両方があるのは、筆者が前者の名前を、表記上最も近いと判断(アクセントは後方につく)、採用した結果、引用文と異なった為です(但し、マリーが最も一般的)。
    
マリをリストが伴おうとした「イスタンブール」を文献によっては、「コンスタン
テイノープル」とするものもあり、確認出来ぬまま、任意で前者を採用しました。
    
かなり情報が錯綜している部分が多く(同じ文献内でも)、もしより正確な情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ご連絡下さい。



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